入力者 大坪寿子
昭和46年3月3日夜の御理解
先日、ある方が、えー、「今日は子供の高校試験、福岡に(?うけに)まいりますが、どうぞよろしくお願いします」というて、(?かえりによられます)ですからね、たとえば、(?受験にでもね、)行きがけに参ってくるような心があればね、神様が、いうならば、それに免じてくださるおかげが(?)あるわけですね。信心ができとらんなら。「今日おまえちょっと、行きがけ、ちょっと、合楽さい、回ってから、お参りしていくぞと」いうて(?????)ならばね、それは、たとえば、本当のおかげではないですね、たとえば、信心がでけて、いただくのじゃないのですから。けれども、ほんなら、それだけのことがね、いうなら、「おかげをいただかんならん。」という時には、(?やはり)神様に、信心でけんでも、れんこん食うてもらはならんよな、おかげいただきたい時があるでしょ。そういう時には、(?もうそれでやめない。ね、たとえば、もっとあせでけん。いうのでもですね。)たとえば、あのー、(?ふつう、 ちゅうごたーふうにでん、おかげいただける場合はね、)必ず、そういうような、あのー、信心が、できておると。(?ちゅうとこの、たとえばお金 )ですよ。前の日からずーっとお願いしてあるとかね。(?前の日に、お参りしとったのが、お願いしとったのが?)というようなこたない。例えばその朝、もう一度参って、そして、試験場にいくと。そこにね、そういう働きがあるです。
それからね、(咳)これは、あの、高橋さんの、おー、奥さんの里の兄さんが、交通事故でなくなられました。明日がお葬式です。それは、あれほど信心しよんなさっとに、うーん、例えば奥さんの里の、事であっても、なんとかおかげの頂けなかったもんだろうかと、私は思いましたがね、ここに、石庭のね、その、石を、うーん、
例えば、うんなら、奥さんの里の方の、人たちが、あの、本とに、あの、例えば、(?????出来るでも)「金光様」と言える、お願いする道をしっとればね、おかげになったです。全然向こうに意思がない。意思が。ね。ぜんぜん意思がない子供たちの場合にはね、相手に、これが、あのー、この頃、(ひろのさん?のお話じゃ、ございましぇんでしたけれども)そのー、(?墓前のときにお供えしたいばっかりに、)まー店の金を間違えて、どんどんお供えしたと、(しらきさん?)がいうておられましたね。店の金を、兄弟、(あとから?)6人おんなさるとですね。でも、お商売をしておられる。ね。それで、その商売は、兄弟4人でしよ、そん時はしよんなさった。ね。自分が会計を握ったもんだから、まちごうて、その、お供えをしたというのですね。ところがそのー、おー、それに、1年経った時には、うんと、穴があいとるもんじゃから、あー、気が付いた。そこで、自分が、店をひかにゃならんようなって、自分だけ、独立したというふうにいうておられました。けれどもその、あいてはね、その、そういう、お供えをしたとか、しないとかっていう、相手には、ぜんぜん意志はないんです。けど、(たひらさんにあるだけです)ね。けれども、意志のあるなしにかかわらず、その、六人おる兄弟のそんときに、いっしょに、商売しとった兄弟の、4人だけは、その、もう本当に、ものずごいおかげを頂いたんです。だから、神様がこと喜んで下さるていったようなことですね。なんかの場合は、ここに意志があっても、なくてもおかげを頂くということがある。いや、ね、または、あんなら、あー、親( )信心がなくても、子供が、その一心の真を捧げて、一生懸命、これ、ねがうといったような場合に、向こうは病院におる。入院しておる。寝ておる。全然知らない。それでも、おかげをうけるという場合があるでしょう。けれどもその、なら(たかいさんたちでも?)奥さん達でも、一心の真を捧げて、(たかんとこまで?)祈ると言う事は、あっとらん訳ですね。第一、向こうには金光様と言う意志もない訳です。だから、こげんとは、おかげのやりようがない。しようがない。( )そんなことで。
今日は善導寺の報徳祭で、うーん、例によって、あの(繁雄先生?)のお話でしたが、えー、(はじめのころ?)おっしゃっておられましたね。このー、信心の受け渡しという事。信心の継承と言う事を、盛んに最近言われるが、信心というものはね、うーん、受けると、あの、渡すとか、受けるとかというものではないのだと。例えばその信心が、本当のものであったらね、えー、信心は、あー、その、本当なものはね、え、こんなに、ことばいっとりましたがね、伝えるものではなくて、伝わらねばおかんという働きがあるものだということ。ね、伝えるものではない。もう、その、(むし?)そのものが伝わらなければおかんという働きで、入って( )というものだと。だ、金光様のご信心が本当なものであるならね、必ず、その、伝えようと思わんでもね、例えば、子供なら子供に、こちらが、まー、金光様の本当の信心をしとりゃー、子供に伝えようと思わんでも、伝わっていくんだということ。だから、いかに金光様の信心をしとっても、伝わらん伝わらんというなら、まーだほんなもんじゃにからだということになるわけなんです。しかし、あたしは、それを聞きながらね、もう他のこと考えよったんです。というのは、ここの御理解集のことですよ。これは「久保山先生、あたしの話しば、どうでんこうでん、いっちょあなたが、(書読して?)から残して下さい」といったら、(あっっっーころでも言うたことなかですけんね?)あたくし。けれども、あたくし(不思議であって、お話をする、火鉢をかこんで話すといったような時から、もう、」あのー、こりゃ、ふつうの話じゃないと気付かれたわけです。それから、あのような、まー、大変な、いうなら、ことがでけたわけです。ね。だから、合楽の、あたしは、この、御理解というのは、いかに本となものかということをですね、今日改めて、感じましたね。「さー、あーたたちが、ここで修行しよるけん、(咳)末永さん、あんたが、いっちょ、後を受けもたんの」っちいったんでも、なーんでもない。しよるうちに、だから、(一面はまーだくもいきがあったぐらいですから)むしろ。ね、けれども、ここで頂きよれば、頂よるほど、これを、このまんまだしたんじゃあいすまんと言うのが、あの人の(せきになったことだ?さらばこんだ、)学院いかんならんけん、学院行きは辞めてから、学院でテープ送ってもろうてから、あちらからでも、あちらでも、さしてもろうかといいよりました。でん、そげなことせんでん、ちゃんと残るもんなら、せにゃんならんもんなら、おかげ頂くが。といいよりましたら、吉岡さんが、ねー、打ち込んでねー、毎日しなさるだけじゃない。その一年間の、(こまくのもんまで)今、暇を見て、それを、あの、まー、えー、成就したいと、言うておられる。どうしたいじゃない。ここの、いわゆる、御理解集、本当な、(ものにおいてのですね。)世のお役に立たせてもらう、世に出させていただくための、いろんな、おかげを頂きたいと言う風に、言うておられるのね。こりゃここで、あたしが、あたしの話は本との話しじゃけん、書いときなさいとか、いうなら( ないでしょうが?)本とは、ほんなもんだからこそです。やはり、伝わらなければおかんと言う働きがあるということが、分かるでしょう。あたしゃ、今日は、えー、先生の話聞きながらね、その、うちの、御理解集の事を思い出したんです。なるほど、ほんとな物は、伝わらずにはおかんという働きが、ほんとなもんの中にあるということです。ね、こりゃもう、ほんとに、あのー、お互いがですね、ほんとに、あたしはこげん一生懸命なりよるとに、伝わらんてんなんてん、まーだほんなもんじゃないからです。(ほけら、ほんとに)子供にこの信心を伝えたい。ほんとに、この人の(てんたい)という人に、伝わっていかないと言うなら、まーだ自分が本当のもんでないから、ね、つたわ、本当な物が本当なものとして、伝わっていこうとする働きを、そのほんとな物が現してないのです。めー、今日は、あたくしその、(3つ)の事を申しましたですがね(まーひとつのトピックス?)のようなことです。ね、今日はわたくし、ひとつ、感じた、お届けさせていただいた、その3つの事、これは、おかげを頂く一つの要諦であったり、または、あー、ほんとなおかげじゃなくても、一つのおかげを頂きたいためには、ひとつのこつがあるといったことやらね、または、神様の、そう、働きと言う物が、このような場合には、いくら神様の働きでも、ここに浸透していくと言う事は出来ないといったようなことね。同時に、その只今、本当な、いわゆる、本当っな道が、本当な道であるならば、その本当な道と言う物はもう、伝えるのじゃなくて、伝わらなけりゃおかん、伝えなければおかん、という働きが、あるものだということをね、この御理解集のことから、感じさせていただきましたですね。どうぞ。